一般財団法人大阪湾ベイエリア開発推進機構
spacer
イベント ベイ機構について なぎさ海道推進事業 広報誌O-BAY リンク集
ベイエリア開発整備 開発整備への提言 研究調査 ベイエリアの基礎調査 自治体不動産情報
広報誌『O-BAY』
spacer
魚庭の海 茅滞の海
今が正念場の大阪湾漁業
 
  Interview   鷲尾 圭司さん
(京都精華大学教授)
鷲尾圭司さん◆わしお けいじ
1952年生まれ。京都大学大学院農学研究科水産学専攻博士課程単位取得退学。1983年兵庫県明石市の林崎漁業協同組合職員となり、沿岸漁業、漁業環境問題などに取り組む。2000年4月から京都精華大学人文学部環境社会学科教授。著書に「明石海峡魚景色」「船・人・環境」。

 「魚庭」と書いて「なにわ」。今も使われる大阪の別称は、たくさんの魚がいる豊かな海という呼び名に由来するという説がある。その豊かな大阪湾で獲れた魚が天下の台所、食道楽の大阪という大消費地を支えてきた。
  戦後、海が汚染され、大阪湾を漁場として見る人は少ない。しかし、海はまだ、死んではいない。今でも漁業は行われており、漁業者たちは、海を再生させるための取り組みに力を注いでいる。美しい海を取り戻すためにも、漁場としての大阪湾を復活させる取り組みが必要だ。明石市の漁業協同組合で様々な取り組みをリードし、現在は、京都精華大学で漁業から見た海洋環境問題にとりくむ鷲尾圭司さんに、お話をうかがった。
 
多様な魚が暮らす大阪湾
 大阪湾とは明石海峡と紀淡海峡に挟まれた楕円形の海。丸い大きな水溜りのように見えるかもしれませんが、海の水は常に動いています。まず、表面の水は、上げ潮、下げ潮でいったり来たりしながら、大きくみると時計回りにゆっくり流れています。
  西半分の深い部分は太平洋から入ってくる水や瀬戸内海から出て行く水の通り道になっており、海水の交流はかなり良好です。ここでは大阪湾と内外の海を行き来しながら暮らすサバ、サワラ、ツバス(若いブリ)、ハマチ、マダイなどが獲れます。
  それに対して、東半分は浅く水が停滞しやすい形で、さらにたくさんの河川が陸から土砂を運んで浅場を形成します。この土砂はたくさんの栄養も含んでいます。さらに淡水と海水が、なかなか混ざらずに汽水域をつくっています。ここには、浅い海の生き物たちや、淡水と海水にまたがって暮らす内湾性の強い魚、ボラ、スズキ、チヌ、コノシロなどがいます。
  また、海底には、カレイ類やヒラメが暮らし、淡路島には岩礁性のメバルやアイナメがいます。
 
豊漁の前触れだった赤潮
 大阪湾は、茅渟(ちぬ)の海と呼ばれます。これは、茅や葦などの水辺植物が豊富であり、また、広い汽水域があるのでチヌ(黒鯛)が回遊してくるからです。
  それと、「血の海」といわれるほど真っ赤に染まることがあったことも、語源のひとつと言われています。つまり、大阪湾では昔から赤潮があったのです。赤潮の正体は夜光虫プランクトンの大発生で、海に栄養がある時に起きます。それに引き続いて、プランクトンを餌にするイワシが大漁になるので、かつての漁業者は赤潮を、よい前触れと考えていました。
  また、大阪湾でサルボウガイ(猿頬貝)という赤貝の親戚がたくさん獲れます。赤貝の仲間が赤いのは、我々の血液中にあるのと同じヘモグロビンを持っているから。赤貝は富栄養化した場所を好む生き物で、そういう場所は、貧酸素水塊※1ができる可能性があります。貧酸素状態に見舞われたとき、少ない酸素を効率よく利用できるようにヘモグロビンを持つようになった。ですから、赤貝をきれいな水で養殖すると、おいしくないし、色も薄くなってしまうそうです。
  つまり、人間の活動による汚染が進む前から、大阪湾には自然に富栄養化が起こる要素があり、生き物たちはそれに適応して暮らしていたのです。
  一方で、瀬戸内海の景色を表す「白砂青松」という言葉がありますが、これは栄養分の乏しい海の景色です。きれいな水に常に洗われていないと、白い砂浜は維持できません。松もやせ地に生える植物で、浜の土に栄養がないことを示しています。
  海の中では時々、赤潮がでて魚が大量にわき、海草の間では貝がごろごろ獲れるけれど、基本的には海岸線を見てわかるような貧栄養な海。それが、大阪湾の本来の姿です。

※ 1 溶存酸素濃度が極度に低い水の塊。富栄養化によって異常増殖したプランクトンが死滅して海底に沈降、それを分解するバクテリアの活動によって酸素が多量に消費され、酸素濃度が極度に低下する。

 
綿作と都市が漁業を変えた

 大阪湾で行われていた漁業は、古くは小船で魚を釣ったり、潮干狩りで貝を採ったりと、さほど生産力はありませんでした。しかし、江戸時代に、泉州地方で綿がつくられるようになって、大きく変わってきます。綿糸から網がつくられ、網による漁業が拡大したのです。地引網などでイワシがたくさん獲れる。すると、食用だけでなく、肥料にして綿畑に入れるという循環ができ、大阪湾漁業の生産力が上がっていったわけです。
  漁業を変えた要素には、もうひとつ、大消費地としての大阪の存在があります。天下の台所で食文化が発達し、あらゆるものが集積するようになりました。
  魚も集まってきました。魚は、当然、鮮度が良いほうがおいしいですから、大阪の魚市場では、明石海峡や淡路あたりで獲れたものを「前もの」、岡山あたりの魚は一夜明けたという意味で「一明けもの」、広島や九州の魚は「下のもの」と区別していました。遠くからは、干物や塩漬けにした状態で運ぶしかありませんでした。
大阪の漁業データ  やがて、生きた魚を運搬する「生船」が登場します。生簀が浮いたまま動いてくるような船です。江戸期からありましたが、明治期に汽船が登場してから普及が進みました。しかし、大阪湾奥部は汽水なので、そのまま行くと外海の魚は死んでしまいます。そこで、船を西宮や明石につけて、水が入らないように栓をして、ため水にしてから市場に近づくようになった。さらには、中継地に生簀を構えて市場の様子を見ながら出荷調整をするようになりました。明石は、川もないし外海との水の交流もよく水質が安定しているので、中継地としても発達したのです。
  明石では、明石海峡付近でとれたものと、西国から生船で運ばれてきたものをあわせ、バラエティに富んだ品揃えができました。それだけではなく、明石の漁業者は、生簀に一日おいて次の日に届けたものの方が、おいしくて人気が高いことに気づきます。「活け越しの技法」といって、今でもあまり知られていないですが、これが、「明石もの」というブランド価値を高めていきました。大阪という食い道楽の消費地に多方面から魚が集まり、競争をしていくなかで、明石の魚が大阪湾の魚の中で一段高い地位を占めるようになりました。これが、経済成長に伴って、海が変わり始めるまでの状況です。

大阪湾の水深
 
「死の海」の豊漁時代
 戦後、高度経済成長の間に、沿岸開発による埋め立てと、公害による汚染がひどくなっていきました。1970年代には死の海とまで言われました。赤潮が頻発し、ヘドロがたまり、奇形魚がたくさん揚がって、大問題になりました。
  けれど、実はそのころが、大阪湾の漁業が一番栄えた時期でもあったのです。最大の水揚げは1980年代に記録されています。海にとっての公害の一側面は富栄養化です。白砂青松の海が破壊され、どんどん栄養が入ってくると、そもそも貧栄養の海に暮らす生き物は、がつがつ食って太り、大発生してしまったのです。特に、食物連鎖の低位にある小魚・・・イワシが大発生しました。イワシ類は海の中層を泳ぎます。天敵の魚は下からイワシを狙うのですが、海底はヘドロで住めない。表層は赤潮で覆われて、餌となるプランクトンが絶え間なく降ってきます。要するに、イワシの天国が生じたわけですね。一時期、バケツ1杯10円になるほどの大漁がありましたよね。
  また、このイワシが深い海のほうに出てくるとスズキとかタチウオの餌になるので、淡路島側でも高級魚が豊漁になりました。
  世界中の漁獲量を海の全面積で割ると、1年で1km2あたり1トンです。日本列島周辺は世界4大漁場と言われる豊かな海で、約10トン獲れます。瀬戸内海は10?15トンくらいで、大阪湾の最高記録が58トン。今でも破られていない世界記録、はっきり言って富栄養化バブルです。
  そして、このとんでもない漁獲量が、大阪湾での開発を進めるうえでの漁業補償の算定ベースになり、多くの補償金を出したものだから、まじめに漁業をするより、漁業をやめた方がよいという状況になってしまい、それが漁業の荒廃を招いてしまいました。
  しかも、大阪湾の西半分では沿岸開発はあまり多くはなかったので、当然、漁業補償もありません。漁業で生きていく人と、漁業補償をもらい廃業をする人に分断されたことも、大阪湾をトータルに考える動きに水を差してしまい大阪湾の再生の支障になった面もありました。
 
農業と食生活の変化が
 なぜ、海はこれほど汚れてしまったのでしょう。
  よく言われる経済成長より前に、まず、農業の変化がありました。農地には肥料が必要です。昭和30年代近くまでは、農地で生産した作物を食べた人たちの屎尿を回収し、農地に還元していました。つまり、栄養分が循環していたわけです。それでも足りない分は、海で獲れたイワシなどを肥料として入れていた。だから海は貧栄養になりこそすれ、富栄養化することはありませんでした。
  ところが、化学肥料が利用されるようになり、海のものはもちろん、屎尿さえ必要なくなります。当時、下水処理システムはなかったので海洋投棄、須磨沖に捨てるということをしました。昭和30年代、サバの大豊漁があったのですが、撒き餌をしていたようなものだったのです。
  その後、海洋投棄は赤潮につながるからと、下水処理されるようになりましたが、有機物を無機物に変えているだけで、その中の栄養成分である窒素やリンは、今日でも半分も取り除けていません。半分以上の栄養分は水に溶けたまま海に流される。これはもう富栄養化せざるを得ない状態です。
  農業と暮らしが変化し、栄養分の循環が破壊されて、使い捨て型になったために、白砂青松の貧栄養環境が一気に変わってしまったのです。
  富栄養化が始まった頃は、漁業生産は増加しましたが、行き過ぎると糖尿病になります。今はそういう状態ですね。漁業生産は頭打ちになり、海底のヘドロがたまったところでは貧酸素水塊ができて、魚がすめない。あるいは、貝毒プランクトンが発生して、それを餌として食べた貝が毒をもってしまって出荷停止になる。
  といっても、今でも年間1km2あたり、20トンくらい獲れているのです。ここのイワシは生鮮には向かないほど脂がのっており、工業用として脂をしぼって、化粧品やマーガリンの原料にし、絞りかすは鳥の餌にするという利用がほとんどです。その結果、大阪湾で獲れた魚を食べるという実感がなくなっているんですね。
 
ついに大阪湾で青潮発生
  現在の大阪湾ですが、まず、陸域から入ってくる水の状況が大きく変わっていますね。本来、川は絶えることなく流れ、大雨で数日くらい濁っても、また澄んだ水が流れるものでした。今、通常はダムに水が蓄えられて川は干上がっている。大雨が降ると排水優先で、どっと流す。便秘と下痢を繰り返しているようなものです。恒常的に流れがあれば、川は濁りを解消する力を持っているのですが、現状は、川が干上がって、表面が綿ボコリ状に乾いたところに、
どっと水が流れるようなことを繰り返しているから、海に流れ込む水はつねに濁っている。河口近くの海草は濁りをかぶって死んでしまい、魚の住処がなくなる。そもそも海草が生えるような浅場自体、ほとんど失われていますがね。
  さらに、埋め立て工事が進んだ結果、海の時計回りの循環が止まってしまったのです。かつて、大阪湾の奥の水は2週間ほどかけて流れの速い部分に出ていたのですが、今、1ヶ月たっても奥にとどまったままです。となると、明石海峡側は栄養分が巡って来ないので貧栄養状態がひどくなります。須磨から明石では海苔養殖が盛んだったのですが、数年前から栄養不足が目立つようになりました。また、明石の漁場も栄養不足で不漁になっています。
  逆に、奥部は栄養がたまりにたまって、「富」を通り越して過栄養状態になり、「青潮※2」が出るようになってきました。貧酸素どころか、無酸素状態の水が生じて、湧き上がる水が青く見える現象で、東京湾の専売特許と思われていましたが、大阪湾でも見られるようになったのです。
  それに、酸素がなくなった状態が化学変化を誘発して、これまで地底に堆積していた有害な化学物質を溶け出させてしまう可能性が心配されています。

※2 貧酸素水塊が強風等によって岸近くの水の表層に上昇し、海水が青色ないし白濁色を呈する現象。魚介類の大量死を招き、アサリが死滅する等の被害が出る。

 
イカナゴから大阪湾再生を

 それでも、まだ、大阪湾は生きています。外海とつながる水の通り道や、水の循環という再生装置を持ち、人間が暮らすずっと前から、富栄養状態になることがあって、それに適応した生態系をはぐくんできた海です。
  重要なのは、奥の部分の水の流れに、どうてこ入れをするか。たとえば、たくさん来る台風を利用する。台風というと防災の観点から波を消すことを考えますが、台風の攪拌作用を利用して、再生のきっかけにできないか。そんな、自然のエネルギーを利用した海の再生の仕方が大事になってきます。
  もうひとつ鍵になるのが、イカナゴのくぎ煮です。なぜくぎ煮が再生の鍵なのか奇妙に思われるかもしれません。
  イカナゴというのは12月に播磨灘で生まれ、冬の季節風で大阪湾に稚魚が流れていきます。3月には3センチくらいになって自分で泳げるようになり、生まれ故郷に戻ろうとして、明石海峡に集まってきます。ここで、船曳き網で漁をするのです。かつては、イカナゴは肥料や養殖の餌でした。それを20年ほど前から、生鮮で食べようということでくぎ煮を考えたのです。大阪湾は公害の海といわれますが、イカナゴのような小魚は汚染を濃縮していないから安心して食べてもらえるし、たくさん発生しているから、少々、獲らせてもらっても乱獲にはならない。そして、目の前の海から水揚げされて3時間以内には鍋に入れられて調理される。そんな海との近接性があり、手づくりだから腕を競い合うこともあり、大きな人気を獲得しました。淡路島や大阪府漁連でも取り組み始めましたね。 
  イカナゴが季節の風物詩となり、3月になると海の情報に注目があつまる。獲れ具合や相場に関心が向くようになる。市民が大阪湾の情報を共有しはじめる。
 地元の人が地場の魚を食べるようになれば、漁業者も変わってきます。プロ漁師の自覚がよみがえって山に木を植えよう運動を始めたりしていますね。
  あと5年ほどすれば、東側と西側の漁業者が手をつないで、再生に取り組めるのではと期待しています。

 

  "漁師は海のまもり人"を合い言葉に大阪湾の美化と環境改善を府民に呼びかけるイベント「魚庭の海づくり大会」での漁船パレード
 
陸よ、オトナになれ。

 漁業関係者は、数は少ないですが、その経験的な知識、海に対する洞察力は非常に大きな力になります。それに比べると、水産研究者が持つ知識なんてわずかなものです。「学者の知識が高級で、漁師の知恵は非科学的だ」なんて考えの人がいると、海の再生と言いながら、別の開発事業を持ち込むことになってしまう。これは要注意です。自然科学だけじゃなくて民俗学的な、消費者に支持され応援されるようなアプローチが必要でしょう。イカナゴのくぎ煮のような、安い魚だけど、地域に力をもたらしてくれるような取り組みがね。
  消費者が地元で獲れたものを利用すると、下水処理で半分しか除けなくても、栄養分は循環します。それを意識した食生活をしてもらいたいですね。自分たちの食べるものをはぐくむ海を汚してはいけないし、水を停滞させてもいけない。人間も血の巡りが悪くなると、ろくなことがないのと同じです。
  ベイエリア開発に関わる人たちには、「陸と海を一体的にとらえ、総合プロデュースする」こういう意識で施策を考えてほしいと思います。
  これまで、陸が発展してきたのは、海にさまざまな環境上の不経済を押し付けてきたからです。大阪湾という海は、陸から幾多の矛盾を押し付けられて、それでも今まで、なんとか生きてきたのだから、今度は、陸の側がオトナになって、海とバランスをとった発展をめざす義務があるのではないでしょうか。


spacer
line
このページの先頭へ
spacer
問い合わせ ENGLISH サイトマップ HOME
spacer
spacer spacerspacer
広報誌『O-BAY』
No.67 2017年春号 No.66 2016年冬号 No.65 2016年秋号 No.64 2016年夏号 No.63 2016年春号 No.62 2015年冬号 No.61 2015年秋号 No.60 2015年夏号 No.59 2015年春号 No.58 2014年冬号 No.57 2014年秋号 No.56 2014年夏号 No.55 2014年春号 No.54 2013年冬号 No.53 2013年秋号 No.52 2013年夏号 No.51 2013年春号 臨時号 No.50 2012年冬号 No.49 2012年秋号 No.48 2012年夏号 No.47 2012年春号 No.46 2011年秋号 No.45 2011年夏号 No.44 2011年春号 No.43 2010年冬号 No.42 2010年夏号 No.41 2010年冬号 No.40 2009年秋号 No.39 2009年春号 No.38 2009年冬号 No.37 2008年秋号 No.36 2008年夏号 No.35 2008年春号 No.34 2008年冬号 No.33 2007年秋号 No.32 2007年夏号 No.31 2007年春号 No.30 2007年冬号 No.29 2006年秋号 No.28 2006年夏号 No.27 2006年春号 No.26 2006年冬号 No.25 2005年秋号 No.24 2005年夏号 バックナンバー
サイトマップ ENGLISH お問合せ 一般財団法人大阪湾ベイエリア開発推進機構トップへ