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広報誌『O-BAY』
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海辺に緑 まちに花
尼崎で始まる市民参加の壮大な実験
 
  Interview     中瀬 勲さん
〈兵庫県立人と自然の博物館 副館長〉
〈兵庫県立姫路工業大学 教授〉
中瀬 勲さん◆なかせ いさお
1948年生まれ。大阪府立大学農学部農業工学科卒、同大学大学院農学研究科緑地計画工学専攻修士課程修了。同大学助手、講師、助教授を経て、その後、兵庫県立人と自然の博物館環境計画部長などを歴任、2000年より現職。専攻は園芸、造園学。農学博士。

 都市緑化がなぜ必要かという問いには、ヒートアイランド現象の緩和や、多様な生物の生息場所になるといった、緑の持つさまざまな機能が答えとして用意されます。それはもちろん間違いではありませんが、私には、都市にも緑があるのが当然で、緑が無い状態に、これまで耐えてきたことのほうがおかしいと思います。
  私たちの世代は、子どものころ、山や川で遊んだ経験をもつ人がほとんどでしょう。緑ゆたかな自然を原風景として持っています。なのに、高度成長期、私たちは効率を追及するあまり、都市も効率的で隙のないものにしてしまったのです。私たちが、自分自身の成長と、経済の成長の過程で私たちの自然や緑に対する価値観が変わってしまったのでしょうか。
 
あるべきものを取り戻す
 ただ、日本の気候や地形のおかげで、東京を除くほとんどの都市では、少し郊外に行けば田んぼがあり、その向こうに山林を見ることができます。それを借景にすることで、街に緑が無くても耐えられたのかもしれません。
  しかし、高度成長からバブル時代を経て、緑の無い空間がさらに広がり、ヒートアイランド現象なども顕在化してきて、はじめて、緑がないことの痛みに気づいたのではないでしょうか。緑がなくても平気だったように見える時代も、潜伏期間だっただけで、決して健康ではなかったのだと思います。
  ただし、これは、緑の中で遊んだ経験を持つ世代の話です。緑の少ないところで育つと、緑への欲求はそれほど強くなりませんよね。現代の子どもたちの原風景は、緑ではなく、都会の路地でもなく、テレビゲームの画面中にある風景かもしれない。それは、恐ろしいことだと思います。大人たちはその恐ろしさを感じているのに、子どもたちに川に近づくなとか、道で遊ぶなと言っています。自分が子どものころは、川も道も遊び場にしていたのにね。しかも、自分たちの原風景である山や川を、子ども世代のために残すことを怠って来ました。そういう意味では、早急に緑を取り戻すことが必要です。
 
私の緑と役所の緑
 都市の緑と言うと、よく、街路樹の本数や、市民一人当たりの都市公園の面積が指標になります。けれど、私たちの眼に入る緑は、公園や街路樹だけではありません。個人の住宅の緑も、山の緑も、すべてが同じ緑です。
  最近、市民参加や、行政と市民の協働ということがよく言われます。緑にも同じことが言えます。これまでは、家の垣根の中は私(わたくし)の緑、公園や街路樹はお役所の役目でした。けれど、市民が公園の計画や維持に関わることが増えてきました。逆に、行政が個人の庭に、種や苗を支給して、街の景観のために一役買ってくださいというケースもあります。公の緑と私の緑を隔てていた垣根が取り払われてきているのです。
  公園は、構想、計画、設計、造成という段階を経てつくられています。利用者である市民は、公園作りには直接には関わっていませんでした。芝生は立ち入り禁止、キャッチボールも禁止というのも、利用者の立場からではなく、維持管理のしやすさというか、守ることを中心に考えているように思えます。
  まず、どんな風に使いたいかというニーズがあって、それにあわせた公園のあり方を考える。これが、今、始まっている、市民参加の公園づくりですよね。ワークショップを重ねて、構想を練るところを、行政と市民が一緒にやることによって、使ってもらえる公園ができる。自分たちでつくった公園は、大事にしますよね。
  個人の庭の方は、だれでも、はじめは自分の楽しみのために花を植えます。利己的な花と緑です。ところが、道行く人が、「きれいですね」と褒めてくれると、人のために、もっときれいにしようと考えるようになる。利他的な花緑に変わるのです。花緑には伝染性(?)があって、一軒がきれいにしていると、まわりの家にもそれが広がっていきます。それなら、みんなで協力しようということになると、これは、環境的な花緑になります。
  花を媒介にして、地域の環境が変わり、グループが生まれ、コミュニティが育っていくことが非常に多いのです。花が嫌いな人は少ないですし、自分の住む場所が花と緑できれいに飾られていて、皆から褒められるのは、気持ちのいいことですからね。
 
まちづくりのツールとしての花緑
 私は緑はツールか、ターゲットかという話をよくするのですが、花と緑は最初は活動のターゲットです。花と緑にあふれる美しい街角をつくろう、気持ちのいい公園をつくろうと。しかし、それだけでは終わらない。一緒に活動した仲間と今度は福祉に取り組もうとか、まちづくりのコミュニティが生まれるんです。
ビジネス街の一角に設けられた花壇(大阪・淀屋橋) そういう意味では、緑はまちづくりのツールとして考えることもできます。コミュニティの希薄なところで、いきなり、「まちづくり活動をしましょう!」と呼びかけても、参加するには勇気がいります。
  花と緑は、まちづくり活動のきっかけづくりとして、とても有効なツールなのです。なにしろ、ひとりが自分の楽しみのために始めたことが、まわりを巻き込んで、まちづくりの仲間をつくってしまうくらいですから。
  市民参加のまちづくりは、今、関西、特に阪神間が、日本でいちばん、進んでいると思っています。その背景には、阪神淡路大震災の経験があります。早急な復旧、復興が必要な街で、市民は行政に頼るばかりではダメだということを知りました。行政も市民の力を借りなければ、自分たちの力だけではダメだと言うことを知りました。そこで生まれた活動ですから、とても、実践的で力強いのです。
  花と緑を介した活動は、厳しい状況にあった被災地でも、その後のまちづくり活動の継続と広がりにも、大きな力を発揮していますよ。
  兵庫県は「参画と協働の推進条例」を制定して、この4月から施行します。それに先駆けて、策定された長期ビジョンは、県下10地域それぞれで、地域ビジョン委員会を作って、公募委員を100人程度募って、議論を重ねて作られたんですよ。私もお手伝いしましたが、それは大変な作業をされていました。行政も確実に変わっています。
 
尼崎から新しいまちづくりを
 そして、尼崎21世紀の森構想のお話です。
  尼崎市のベイエリア、国道43号線より南の約1,000haが対象で、その中の拠点地区55haでは自然の再生、つまり森をつくる計画があります。50年、100年という長い時間をかけて、行政と企業と、そして市民が力をあわせて森を育てて行くという、壮大な計画です。
  私は、この構想をとても高く評価していますし、私自身が、とてもワクワクしています。構想委員会の委員もさせて頂いていますが、公式見解ではなく、私がこの構想に抱く夢について話をさせてください。
  この構想は、ニューヨークのセントラル・パークと同じくらい、あるいはそれ以上の価値があります。セントラル・パークは、今から100年ほど前、フレデリック・ロウ・オルムステッドたちの設計でつくられました。100年後の今、セントラル・パークはニューヨーカーの心のよりどころであり、この公園の存在がニューヨークという街の格をあげる存在となっています。
  尼崎の21世紀の森も100年後の世代への贈り物です。しかし、セントラル・パークは、ひとりの人間が設計したものですが、こちらは、市民参加で皆で育てていく構想です。セントラル・パークが20世紀のランドスケープの基礎だとしたら、21世紀の森は、21世紀型のランドスケープのモデルとなる壮大な社会実験だと思います。
  自然が失われた都市に、次の世代のための森を再生する。それも市民の手で。今はまだ、現地での活動はできないので、森を育てるためにつかう土をつくったり、ドングリをひろって苗木を育てたりということから始めています。誰でも気軽に参加できるように、子どもたちが読めるガイドブックを今、作っているところです。
  都市の森、環境創造の森というゾーンは決まっていますが、具体的な計画も市民参加で作っていく方向と思います。私は、先に細かく計画を決めるより、作りながら考えたらいいと思います。
  だって、10年先のことは、誰にもわからないじゃないですか。100年をかける森づくりです。考えている間に時間が過ぎて、その間にも緑は減ってしまう。それより早く動き出して、必要があれば修正しながら進めていけばいいと思います。重機をなるべくつかわずに、みんなでスコップを持って行って、造成したり道をつくりたいくらいです。
  そして、現場に来て作業できる人だけではなく、自分の庭で苗を育てる人、遠くから応援する人も含め、この森づくりに関わる人が、みんなで、大きな夢を共有したい。ひとりひとりの夢は、厳密にいえば、それぞれ違うでしょうが、アイデアを出し合い、一緒に作業をするなかで、思いが共有されて、みんなの足跡と記憶が残る森を育てたいのです。この計画は、森を育てるだけでなく、新しい公園造りのソフトとハード、そして人材を育てる取り組みです。
 
21世紀型の産業もここから
 工場地帯に森を造って何になるのだという疑問を持つ人もいるでしょう。しかし、アメリカのシアトルでは、1970年代に都市ガス工場の跡地に市民参加で造った公園、「ガスワークス・パーク」が市民にたいへん愛されているという例があります。今では、この公園を中心にサイクリングコースがネットワーク状に延びています。
  それに「工場地帯」って誰が決めたのでしょう。その土地自身は、工場になんてなりたくないかもしれないのに、こちらの都合で工場用地ということにしただけですよね。
  ここに森ができることで、周囲の工場も変わると思いますよ。まず、一般の市民が、これまで来たことがなかった場所に、訪れるようになります。看板を見てもらえて、ここで製品を作ってるんだと知ってもらえる。そうすると、少し、きれいにしようかということになって、気持ちのいい工場地帯になっていくかもしれない。
  それだけではありません。私は、この森のイメージにあう工場、リサイクルなどの静脈産業や、バイオマスなどを使った新エネルギー関係の施設などが、周辺に進出してくると思っています。森自体は産業ではないかもしれないけれど、森を育てることで、周辺の工場地帯に、ブランド力がうまれるのです。
  これらは、21世紀型の新しい産業です。環境型、循環型の産業がもっと発展すべきだし、それがこの森を核にして、ベイエリアに展開するようになると信じています。尼崎21世紀の森構想は、自然再生、まちづくりの実験であると同時に、21世紀型産業、つまり循環型産業への転換を目指す取り組みでもあるのです。

 都市緑化への渇望があり、花と緑を介したまちづくりの活動が広がり、市民と行政が協働したまちづくりの進展ができるようになり、循環型社会の必要性が理解されるようになった今だから、長い時間をかけ、たくさんの人の思いを集めて、自然、森を創造するという、新しい試みができるのです。
  これからの日本のまちづくりのモデルになりますよ。このモデルは、すでに成長を始めています。




ちょっとウンチク 都市の緑も頑張ってます

飛躍的に増加中
 日本は、温暖湿潤な気候に恵まれ、国土の約7割を森林が占める、緑豊かな国だが、都市部はコンクリートとアスファルトに覆われて緑が少ない、というのは、誰もが認める常識だろう。
  本誌インタビューで、中瀬先生が、都市の緑の量を公園面積や街路樹の本数で計ってもだめだとおっしゃっているが、他に指標となる数字が無いので、住民1人あたりの公園面積の国際比較をご覧いただきたい。
  ニューヨーク29.3m2(1997年)、ロンドン26.9m2(1997年)、パリは11.8m2(1994年)で上の2都市に比べるとかなり劣るが、大阪市はパリよりさらに小さく、3.5m2(2001年)。国内の政令指定都市の中で比較しても、東京特別区の3.1m2に次いで小さい。
  しかし、である。1964(昭和39)年、この数字は1.1m2だった。40年近い年月をかけて、3倍以上に増やしてきたのだ。同じ時期、公園樹も40万本から405万本に、街路樹を9万本からなんと、573万本に増加させた。大阪市だけではない。尼崎市も街路樹を、1万3千本(1965年)から263万本(2002年)に増やしている。緑が少ないと言われてきた都市は、みな、緑化にたいへんな力を注いでいる。
  そして、住民による花づくり、民有地の緑化への支援にも力を入れているのは、本誌「そこに生きる人」をご覧になれば、おわかりいただけるだろう。

グラフ:外国の各都市における1人当たり公園面積


屋根の上も緑に!
 公園面積や緑被率、樹木・樹林率などの数字を見ると、湾岸の都市、特に、全域が市街地である大阪市や尼崎市などで低くなっている。
  今、緑が少ないのは、かつてあった森を切り開き、自然を破壊した結果だと考えがちだが、湾岸地域はもとは海だった。川が運ぶ土砂の堆積と、人の手による干拓で、新しい土地が生まれ、そこに農地や街がつくられた。もともと森はなかったのである。
緑豊かで省エネ効果もある屋上緑化 さて、すでに高度に市街化されてしまった街で、どうやって緑を増やすか。尼崎市や堺市で、埋立地に森を作る構想が進んでいるが、もうひとつ注目されているのは、建造物緑化。ビルの屋上や壁を緑化しようというものだ。
  植物に必要な土の重みと水(湿気)が建物にダメージを与えるため、新設ビルはともかく、既存ビルでは難しいとされていた。しかし、軽い土や防水技術の開発が進み、今では、緑で覆うことで屋上のコンクリートの過熱を防止し、省エネになると言われている。もちろん、ヒートアイランド現象緩和への期待も高い。
  大阪市では1991(平成3)年、全国に先駆けて屋上緑化(建造物緑化)への助成事業を開始、屋上緑化の技術開発、施工を手がける企業の最大手も大阪市の会社だ。

花いっぱいの夢
 花いっぱい運動――住民の手で、街を花でいっぱいにする運動は、1952(昭和27)年、長野県松本市で始まった。戦後復興のさなか、日々の生活が大変なのに、花を増やして何になるのか、という批判もあった。しかし、運動は全国に広がり、3年後の1955年には、全日本花いっぱい連盟が発足。発祥の地、松本市で第1回全国大会が開かれた。昨年、第45回大会(第5回世界大会)が和歌山市で開催され、今年は長野県須坂市。
  花いっぱい運動の誕生から半世紀。花を生かしたまちづくり活動が、近年、さらなる広がりを見せている背景として、1990(平成2)年に大阪市鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会」の影響は見逃せない。総入場者2,300万人。大阪湾ベイエリア地域に住む人々の多くが、会場を訪れ、珍しい花、美しい花壇を見ているはずだ。さらに2000(平成12)年には、淡路でジャパンフローラが開催された。ある造園家によると、街角の花壇デザインの腕前は「西高東低」だという。これも花博効果だろう。



そこに生きる人 「尼崎を美しく」
  山中久子
さん
  尼崎花のまち委員会 副会長
 
山中久子さん 「街角をきれいな花で飾ろうという活動を始めて6年。その花を見て、自分の家にも一鉢飾ろうという方が増え、花があふれるまち尼崎になりました」と語る山中さん。1,300名の会員の中心となって活動を推進してきた山中さんに「花のまち委員会」の取り組みについてうかがった。
 
阪神・淡路大震災がきっかけ
 阪神・淡路大震災後、尼崎市内のいたるところがゴミの山になっていました。まちの汚さ、モラルの低下をどうにかしたいと、平成7年に市が設置した検討委員会に私は農協の女性部代表で参加しました。そこでの提案「市民の手でまちを花いっぱいに」を受けて平成8年に市が「花さくまち推進室」を作り、検討委員10人が役員となって市民に呼びかけたのが「花のまち委員会」(以下、「花まち」)の始まりです。当初350名だった会員も、今では150グループ1,300名となりました。
  「花まち」は、2名以上のグループで、公園の一角、自分の家の前など人目のつくところに、初夏・夏花壇と冬・春花壇の2回花を植えます。システムは、まず会員が花壇のデザインをして花の種類と数を割り出し、地区(現8地区)役員に申し出ます。役員は地区全体の数を市役所に申請します。それをもとに、市から土や種、ポットが提供されます。実はこの集計作業を市の若い女性職員が一人でやっていました。残業する姿を見て、大変だなと思い自分たちで分担してやることにしたんです。
種まきから市民の手で
 それに苗作りも自分たちでやっています。トレーへの種まきは、骨の折れる作業です。種が小さいので撒いたかどうか話かけられるとわからなくなるほど。そこで撒いたところがわかるように箸を立てるなんていう技も編み出しました。種まき後1ヵ月間温室で育てた後、ポットに移して各地区の学校でさらに1ヵ月育てます。この時は地区のグループが交代で水遣りなどをします。そうして育った花を、各グループが自分たちのデザインした花壇に植え替え世話をするのです。
  生き物相手ですから座学とは違います。経験が人を成長させてくれます。そういう意味では日々勉強、楽しいですよ。でも、実際に花の世話をするのは傍目で見るより大変で、たとえば夏場だと昼間に加え、家事が一段落した夜中の2時に水遣りをしたこともあります。植物は待ってくれませんから。あるグループはマンションの空地に花を植えていましたが、ほとんどの方は喜んでいたのに、「共用の水を使うな」という住民がいらしたり。2階からホースで水をまくなど苦労されていました。大事に育てた花を盗まれることもしばしば。でも、恨むより、尼崎のどこかで咲いていると思って、また植えようと仲間と話しています。

写真:民家やマンションの前など、まちのいたるところに飾られている花

彩りのある地域づくりを
 「花まち」に参加している方は、まちへの愛着や自分の町だという意識が高まるようです。しんどくても、花というみんなの心が豊かになるものを育てているのもいいのでしょう。私のグループもスヌーピーのデザインで花壇を作ったりして。「見たよ」と話が弾むのも楽しいです。
  私にとって一番しんどいのは役員などの人選です。大会社の偉いさんだった方で、高飛車な態度を取る方もおられます。でも「ここに来たら一市民。みな同じボランティアだ」と私は一喝します。すぐに理解していただいて協力してくださるので助かります。地域のために時間をとられることや仕事を厭わない方がいるお陰で成り立っていると思います。
  私は「尼崎21世紀の森構想」の委員もしていますが、今のベイエリアは危なくて彩りがないように思います。水にはどうしても冷たいイメージがありますので、近づきやすくて賑やかで、木があり花も咲くきれいなベイエリアになればと願っています。

◆やまなか ひさこ
昭和15年伊丹市生まれ。尼崎市富松町在住。尼崎21世紀の森づくり協議会委員、尼崎北警察北地域交通安全活動推進協議会委員などをつとめる。



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