一般財団法人大阪湾ベイエリア開発推進機構
spacer
イベント ベイ機構について なぎさ海道推進事業 広報誌O-BAY リンク集
ベイエリア開発整備 開発整備への提言 研究調査 ベイエリアの基礎調査 自治体不動産情報
広報誌『O-BAY』
spacer
遥か異国の港から
海運の競争力が地域活性化の鍵
 
  Interview   宮下 國生さん〈神戸大学大学院教授〉
宮下國生さん◆みやした くにお
1943年生まれ。神戸大学経済学部卒、神戸大学大学院経営学研究科商学専攻修士課程修了。神戸大学助手、講師、助教授を経て、1984年教授に就任、現在に至る。専門は海運論、国際物流、国際交通。商学博士。著書に「日本物流業のグローバル競争」「日本の国際物流システム」など。

 日本では、物流、特に海運に対する人々の関心が薄いように思います。
  ヨーロッパでは、海事関係の仕事に就く人の社会的ステイタスが高くて、国際航路の船長さんは子どもの憧れの的です。大航海の時代から、海が、国の発展と結びついていた歴史を持つからでしょうか。
  日本の貿易を重量で見た時、海運はその99%を扱っています。コンテナで運ばれているのは、生活に密着したもので、海運がなければ私たちの生活は成り立ちません。それだけでなく、海運の国際競争力は、その国や地域の産業の浮沈を左右する重要な要素。港が果たしている役割を、もっと知って欲しいと思います。
 
明治のグローバル化と物流革命
8x8x20フィートのコンテナが、私たちの生活を支えている(大阪港) 神戸港が開いたのは、明治元年、1868年のことです。
  その前に、ペリーが蒸気船で浦賀にやって来て開国を迫ったことは、日本史で、徳川幕府が倒れて王政復古という政治的な流れの中で、語られることが多いですね。
  けれど、視点を変えてみると、帆船ではなく蒸気船で来たということに、象徴的な意味があります。船が蒸気機関で動いているのですから、当然、欧米の工場はすでに蒸気機関で稼動していました。生産力が向上した結果、国外に市場を求める段階になり、海運を使った国際ネットワークを作る必要性が生まれていたのです。
  日本は極東、ヨーロッパから見ると東のはしで、ここから先は太平洋です。蒸気船で世界を繋ぐためには、極東の日本に石炭補給基地をつくる必要がありました。日本が鎖国をしていたのでは、世界ネットワークがつながらないのです。
  日本が求められたのは、国際社会の一員になることであり、開国は、日本も世界経済の中で生きて行きますという決断であったわけです。
  蒸気船の登場は海運業を生み出しました。帆船の時代は商人が船を持っていました。風まかせで、嵐で難破する可能性の大きい帆船での航海は冒険の要素が強かったのです。蒸気船によって、安全で安定した航海が実現して初めて、荷主から荷物を預かって運ぶというビジネスが可能になったのです。
  19世紀後半はグローバル化と物流革命という、変革の時代だった。今と似ていると思いませんか。
 
神戸港を発展させた4つの要素
 神戸港が開いた当初、大半の貿易貨物は横浜港が取り扱っていました。神戸には、陸上交通、鉄道がまだなかったからです。明治14年に鉄道ができ、国際ネットワークと国内ネットワークがつながって初めて、港としての神戸の発展が始まります。
  その後、商業都市大阪と神戸港の相乗効果で、阪神はビジネスになる場所、魅力的な場所となります。神戸は、大きな工場ができ、造船業が起こり、産業都市として発展して行きます。扱う貨物が増えると、海運を取り巻く諸産業の集積(海事クラスター)が形成され、港としての効率が向上していきます。
  この頃、大阪財界がお金を出して、神戸港に大型の桟橋を造りました。大阪にも港はありましたが、神戸の方が水深があって使いやすかったのです。当時は、大阪だ、神戸だという対抗意識はなく、政府の金を頼りにするあてもなかったので、合理的な判断として、大阪財界の金で神戸港を整備するということが行われたのです。
  整理すると、国内外のネットワーク、後背地の発展、海事クラスターの形成、民活という4つの要素があって、神戸港は発展して行きました。
  第二次世界大戦が激しくなる頃までに、神戸港は世界の海運の中心となっていきます。ロンドン、ニューヨーク、ハンブルグと並んで、4大海運取引所のひとつが神戸にあったのです。
  「神戸、大阪に来れば仕事がある、海運関係であれば神戸で食べていける」というポテンシャルが発信されて、日本中から「一発、当ててやろう」という人が阪神に集まって来ました。当時、神戸と大阪の起業率は非常に高く、海運業では神戸船主、大阪船主と呼ばれ、互いに競争しながら発展していきました。
 
東京主導の戦後復興で失ったもの
ベイエリアでお馴染みの、大きなキリンが並ぶ風景。ガントリークレーンはコンテナ港の証だ(神戸港) 敗戦後、政府主導の復興計画が推進された結果、経済の東京集中が進みます。荷主の多くが東京に移り、それを追って、海運業も東京に行かざるを得なくなりました。これは日本経済の縮図です。海運業のお客である荷主とは、ほとんどの産業、特に、第二次産業はすべてを網羅しているのですから。
  今、関西経済もベイエリアも沈滞が言われますが、実は、60年程前のこの時から、沈滞は始まっていたと私は考えています。
  さらに、1965年ころから、海運の国際競争力を保つため、政策的な集約が進められました。これも当然、東京主導で、東京の大きな海運会社を中心に6つのグループに集約されます。神戸船主、大阪船主のほとんどが、その傘下に入らざるを得なかった。
  もちろん、横浜の小さな船主もみな、集約されてしまったわけですが、大阪、神戸にあった、旺盛なベンチャー精神が、この時、くじけてしまったのです。
 
コンテナ船の登場でアジアの基地に
 しかし、神戸港は、もう一度、挑戦の機会を得ました。それはコンテナ船の普及です。帆船から蒸気船に変わって以来、ずっと船は変わっていなかったのですが、1965年頃、コンテナ船が登場します。コンテナとは、長さが20フィート、間口が8×8フィートに規格化された箱で、これを使えば、どの港、どの船会社を使っても、効率的に作業ができます。
  ただし、港にはコンテナを揚げ降ろしするシステムが必要になります。ベイエリアで見かける、赤い大きなキリンのようなガントリークレーン。あれが無い港には、コンテナ船は来ないことになるわけです。
  当時、アジアで、そんな設備投資ができたのは日本だけで、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、北九州の6大港が、コンテナ港として整備されました。
  ちょうどこの頃、アジアの国々が輸出を始め、日本はその中継基地となりました。荷物を従来の船で日本の港に運び、いくつかの貨物を混載してコンテナ船に積み替えるわけです。なかでも神戸港がアジアからの貨物をたくさん集めて、1970年代から80年代にかけて、世界のコンテナ港の中でもっとも取り扱い量が多い港として栄えました。
  けれど、アジア諸国が発展して自らコンテナ港を持つようになると、当然、積み替えの荷物は出てきません。日本の港からは日本の荷物しか出ないとなれば取扱量は減り、コンテナ船が寄航する頻度も減ってしまいます。
  日本の港の国際競争力を維持するため、スーパー中枢港湾を決めて貿易貨物を集中し、効率を高めなければいけないということで、今、検討が行われています。今年中には結論が出ることになると思います。
 
平成の物流革命を生き残るために
長崎を彷彿とさせる港町、韓国の釜山。アジアの主用貿易港として発展中。 今、明治初期と同じように、海運、そして国際物流は大きな転換期を迎えています。
  世界中すべての経済地域が、点ではなく面となって連なる時代が来ました。アジアは、日本だけでなく、NIESがいて、次にASEANの国々が控え、さらに中国がそれを追い抜く勢いで伸びているという、何層にもなった強い経済構造を持つに至りました。
  ヨーロッパ、アメリカ、アジアが、本当の意味で3つの拠点になったのです。
  航空貨物の伸びも大きな変化です。重量では海運が99%を扱っているといいましたが、金額でみると30%を航空貨物が占めます。先進地域向け輸出に限ると40%近くにおよびます。重量あたりの価格は、航空貨物と海運では70倍の差があるわけです。
  高額な航空貨物を使って運ぼうと言うのですから、価格の高い商品であるのは当然ですが、そこには、ITの発展やサプライ・チェーン・マネジメント(SCM)の普及が関係しています。つまりそれは、スピードを重視するビジネスです。
  スピードという点で、船は飛行機にはかないません。しかし、それで諦めて、重量で見れば海運も安泰だと考えてしまっては、ジリ貧が続くだけです。
  飛行機か船か、選択の境界線上にある商品を、いかに海運にひきつけるか、また、他の港との競争にどうやって勝つかを考えなければいけません。
 
海運の競争力が地域の経済を左右する
 これは、港湾の問題だけではすみません。取扱量が減れば、船が来る頻度は減るし、海事クラスターも弱体化して効率が悪くなります。日本に工場をつくっても、運ぶ手段に困るという事態になれば、経済全体に影響を与えます。
  港湾業、海運業は、荷主の物流活動の通過点であり、いかに短時間に、効率良く、お客さんが喜ぶサービスを提供できるかが勝負になります。SCMや戦略的物流が言われる時代、海運もそれに対応したサービスを提供できなくてはなりません。
  そのためには、ITの活用はもちろん、国内物流のネットワークに見られる規制の撤廃が重要になります。国内物流業には長く国際競争にさらされることがなかったために、規制や非効率な部分が多くあります。これを、国内物流業という一産業分野を守るための規制や商習慣だと考えていたら、国際競争の中で、海運も、そしてそれを使う産業も、その被害を受けて沈んでしまうことになりかねません。
  かつて、大阪財界が神戸港を整備したように、大阪湾ベイエリア全体で、関西の経済を考えた取り組みを進めることも重要だと思います。
  これからは、政府の予算に頼れない時代です。大阪、神戸に、かつてのベンチャーと民活の精神を取り戻すことも考えなければなりません。
  明治時代の4要素、ネットワーク、後背地の発展、海事クラスター、民活は、今も重要なキーワードです。それぞれに、最新の技術、現在の国際ネットワークの状況などを織り込んで、取り組んで行かなければならないのです。

 船に乗って海から見ると実感できますが、これだけ異なる文化が花開き、さらにそれが発展するシーズを備えた大きな地域で、しかも海に向かって開かれている場所は、世界でも大阪湾だけです。温暖で暮らしやすく、経済力も教育力もある。海に向かってということは、世界に向かって開いているということです。そんな関西に活力がないというのが不思議なくらいです。
  海から見る景色に、行政の境界線はありません。今、求められているのは、行政の枠を超えた連携です。行政も産業界も地域エゴを捨てて、お互いに清濁合わせ飲む気概でもって、アイデンティティある発展と、それらのシステム連携を通じて大きな活力を生まねばなりません。大阪湾ベイエリアでの取り組みに期待したいですね。




ちょっとウンチク 大きなキリンさん大活躍

普通サイズで高さ60m
 ベイエリアに行くと目につくキリンのような巨大構造物、その名は「ガントリークレーン」。荷物を詰めたコンテナを吊り上げて、専用船に積み降ろしするためのクレーンだ。
  コンテナのサイズは世界共通で、幅8×高さ8×長さ40もしくは20フィート。コンテナ船は、大きいもの(5万トン級)で4,400個のコンテナを積むことができる。
  大きなコンテナを巨大なコンテナ船に積む「キリン」のサイズはというと、一般的なものが頭を上げた状態で高さ60mくらい。
  大阪港に最近できた一番、大きなものは、首の長さが50m、脚が35m、胴体の長さは30m、尻尾が15mである。サイズだけみると恐竜だが、やはりあの姿は、どうみてもキリンだ。コンテナ船は長さが300mくらいあるので、このキリン、横歩きができる。

何でも箱入りの時代

 コンテナの中に積まれているのは、生活に必要な、ありとあらゆるもの。専用の船で運ばれるもの(石油、液化天然ガス、穀物、自動車など)以外は、ほとんどコンテナ船で運ばれていると考えていい。陸に上がったコンテナは、そのままトレーラーで陸送されたり、コンテナターミナルに隣接する物流センターで、荷物をトラックなどに積み換えられ、各地に運ばれる。

ガントリークレーン(大阪港夢洲コンテナターミナルC-11)

 海運は、重量で見ると、貿易全体の99%以上を占める。また、貿易額では、全貿易に占めるコンテナ貨物の割合は全国平均で40%。東京、横浜、名古屋、大阪、神戸の主要港では60~90%に達する。
  私たちの生活は海運が無ければなりたたない。そして、身の回りにある、輸入食品や製品のほとんどが、あのキリンのお世話になっているのだ。


1トンの貨物を1km運ぶために必要なエネルギー(kcal)海運はエコの優等生
  今や、何をするにも、環境に配慮し、二酸化炭素をできるだけ出さないようにしないといけない。
  その点、海運は非常に優秀だ。1トンの貨物を1km運ぶのに必要なエネルギーは、航空機5,291kcal、トラック699kcal、鉄道116kcal、内航貨物船67kcal、外航コンテナ船はなんと23kcalだ。排出二酸化炭素量 は鉄道6gに対して、内航海運10gとわずかに負けるが、営業用普通トラックは48g、同小型トラックは180g、自家用小型トラックにいたっては599gも排出する。
  海運は、環境の世紀の優等生なのだ。

大阪・東京を半日で
 江戸時代、大量、遠距離の輸送はもちろん、海運だった。帆船を使った航海で、大阪・江戸の平均所要日数は15日前後。しかし綿と酒の初荷を運ぶ船は、新綿番船、新酒番船と呼ばれ、廻船レースが行なわれるのが年中行事になっていた。安治川河口から浦賀まで約650kmのこのレース、記録によると、安政6年(1859年)の1着の船は約50時間(2.1日)でゴールしたという。平均すると7ノット、時速13kmという速度になる。
  今、最新の高速フェリーは30ノット(時速55km)で航行できる。さらに、時速90~100km、海の新幹線と呼ばれるテクノスーパーライナーの開発が進んでいる。大阪港から東京港まで半日だ。トラックと対抗できる日も遠くはない。



そこに生きる人 「仕事、技術の深さを実感」
  大野領子
さん・成尾望美さん 
  昌栄運輸株式会社 六甲コンテナ事業部
 
大野領子さん・成尾望美さん 「先輩方の仕事は、私たちと同じ仕事でも効率が良く、しかも正確で、仕事の奥深さを感じているところです」と語る大野領子さんと成尾望美さん。六甲アイランドで働く技術者として9年目を迎える若き女性二人が、仕事の面白さとその深さを語ってくれた。
 
海に関わる一生の仕事
 私たちは震災1年前に入社しました。2人とも女子高に通っていて、就職では友人の多くが事務職を選びました。でも、事務職は、あまり重要な仕事はさせてもらえないというイメージで、魅力を感じませんでした。それよりも、一生ものの資格を取って、働いている実感を持って仕事をしたいと考えました。港町神戸に生まれ育ちましたから、海に関わる仕事がしたいとも思っていました。そんな私たちの目に飛び込んだのが、この会社の求人案内でした。海に関わる仕事でしかも、トレーラーやフォークリフトの免許も取れる。まさに、私たちが求めていたものでした。
  学校の先生などは「そんな男性ばかりの職場に本当に行くの」と心配しました。また、パンフレットでしか触れられない世界でしたから、自分にできるのかという不安は入社までありました。でも、実際に入社してみると、予想より遥かに面白く、やりがいのある職場でした。女性は同期入社の4人だけでしたが、特別扱いもされないし、とても自然に接してもらえたと感じています。
 
3年で仕事に必要な全免許を取得
 最初は植物検査など、荷物チェックの際に、コンテナの荷物を検査できる状態にしておくことが主な仕事でした。危険物以外は中味を事前に知らされることはありませんから、今日は何が入ってるのかとワクワクしながら開けていました。海外からの品物なのに、とても日本的なもの、例えば榊や水引などもあり驚きでした。
  仕事の合間に、さまざまな車の運転練習をさせてもらいました。練習させてもらえることは、先が見えるということでしょう。だから、次はこんな仕事ができるのかなと、いつも夢を持って仕事をしてこれた気がします。お陰で、3年間で仕事に必要な、大型・けん引・大特・天井クレーンの免許を取ることができました。
  いろんな仕事を経験しましたが、今の仕事の中心はフォークリフトでの貨物運搬作業です。フォークリフトはただ動かすだけでなく操作も必要になってきますから難しいんですが、初めて自分で動かして仕事の一部ができた時は、とても嬉しかったことを覚えています。

大野さん、成尾さんが働く六甲アイランドのコンテナバース(C-3)

 
熟練の技に一歩でも近づきたい
 作業は危険な面もあります。高さ約40mの運転席から大きなコンテナを吊り上げ、大型トレーラーに積み込むガントリークレーンなどは、操作に熟練の技と集中力が必要です。私たちはそのコンテナを受け取るトレーラーを運転することもありますが、先輩の腕を信じていますから、不安はありません。でも、コンテナが載った瞬間は横揺れがするんです。最初は驚きましたが、今はもう平気です。
  フォークリフトを使っての荷物の詰め込み作業にも技と仕事の設計が求められます。9年目になってある程度の作業ができるようになりましたが、まだまだ未熟だと思っています。先輩方の仕事振りに、「いつか私たちもあの技を、そして仕事の組み立てを」と日々働いています。
  一生の仕事、海に関わる仕事と思って選びましたが、やりがいがある仕事をさせてもらっていると実感しています。
  震災以後、神戸に着くコンテナの量が減り、昔の勢いには程遠いと聞きます。もっと神戸に活気が出るためにも、もっと忙しくなるような状況になればと思います。ダイレクトに海外とつながっている職場で、やりがいもあります。男女を問わず、好きな人にはチャレンジして欲しいと思います。




spacer
line
このページの先頭へ
spacer
問い合わせ ENGLISH サイトマップ HOME
spacer
spacer spacerspacer
広報誌『O-BAY』
No.67 2017年春号 No.66 2016年冬号 No.65 2016年秋号 No.64 2016年夏号 No.63 2016年春号 No.62 2015年冬号 No.61 2015年秋号 No.60 2015年夏号 No.59 2015年春号 No.58 2014年冬号 No.57 2014年秋号 No.56 2014年夏号 No.55 2014年春号 No.54 2013年冬号 No.53 2013年秋号 No.52 2013年夏号 No.51 2013年春号 臨時号 No.50 2012年冬号 No.49 2012年秋号 No.48 2012年夏号 No.47 2012年春号 No.46 2011年秋号 No.45 2011年夏号 No.44 2011年春号 No.43 2010年冬号 No.42 2010年夏号 No.41 2010年冬号 No.40 2009年秋号 No.39 2009年春号 No.38 2009年冬号 No.37 2008年秋号 No.36 2008年夏号 No.35 2008年春号 No.34 2008年冬号 No.33 2007年秋号 No.32 2007年夏号 No.31 2007年春号 No.30 2007年冬号 No.29 2006年秋号 No.28 2006年夏号 No.27 2006年春号 No.26 2006年冬号 No.25 2005年秋号 No.24 2005年夏号 バックナンバー
サイトマップ ENGLISH お問合せ 一般財団法人大阪湾ベイエリア開発推進機構トップへ