日本では、物流、特に海運に対する人々の関心が薄いように思います。
ヨーロッパでは、海事関係の仕事に就く人の社会的ステイタスが高くて、国際航路の船長さんは子どもの憧れの的です。大航海の時代から、海が、国の発展と結びついていた歴史を持つからでしょうか。
日本の貿易を重量で見た時、海運はその99%を扱っています。コンテナで運ばれているのは、生活に密着したもので、海運がなければ私たちの生活は成り立ちません。それだけでなく、海運の国際競争力は、その国や地域の産業の浮沈を左右する重要な要素。港が果たしている役割を、もっと知って欲しいと思います。 |
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明治のグローバル化と物流革命 |
神戸港が開いたのは、明治元年、1868年のことです。
その前に、ペリーが蒸気船で浦賀にやって来て開国を迫ったことは、日本史で、徳川幕府が倒れて王政復古という政治的な流れの中で、語られることが多いですね。
けれど、視点を変えてみると、帆船ではなく蒸気船で来たということに、象徴的な意味があります。船が蒸気機関で動いているのですから、当然、欧米の工場はすでに蒸気機関で稼動していました。生産力が向上した結果、国外に市場を求める段階になり、海運を使った国際ネットワークを作る必要性が生まれていたのです。
日本は極東、ヨーロッパから見ると東のはしで、ここから先は太平洋です。蒸気船で世界を繋ぐためには、極東の日本に石炭補給基地をつくる必要がありました。日本が鎖国をしていたのでは、世界ネットワークがつながらないのです。
日本が求められたのは、国際社会の一員になることであり、開国は、日本も世界経済の中で生きて行きますという決断であったわけです。
蒸気船の登場は海運業を生み出しました。帆船の時代は商人が船を持っていました。風まかせで、嵐で難破する可能性の大きい帆船での航海は冒険の要素が強かったのです。蒸気船によって、安全で安定した航海が実現して初めて、荷主から荷物を預かって運ぶというビジネスが可能になったのです。
19世紀後半はグローバル化と物流革命という、変革の時代だった。今と似ていると思いませんか。 |
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神戸港を発展させた4つの要素 |
神戸港が開いた当初、大半の貿易貨物は横浜港が取り扱っていました。神戸には、陸上交通、鉄道がまだなかったからです。明治14年に鉄道ができ、国際ネットワークと国内ネットワークがつながって初めて、港としての神戸の発展が始まります。
その後、商業都市大阪と神戸港の相乗効果で、阪神はビジネスになる場所、魅力的な場所となります。神戸は、大きな工場ができ、造船業が起こり、産業都市として発展して行きます。扱う貨物が増えると、海運を取り巻く諸産業の集積(海事クラスター)が形成され、港としての効率が向上していきます。
この頃、大阪財界がお金を出して、神戸港に大型の桟橋を造りました。大阪にも港はありましたが、神戸の方が水深があって使いやすかったのです。当時は、大阪だ、神戸だという対抗意識はなく、政府の金を頼りにするあてもなかったので、合理的な判断として、大阪財界の金で神戸港を整備するということが行われたのです。
整理すると、国内外のネットワーク、後背地の発展、海事クラスターの形成、民活という4つの要素があって、神戸港は発展して行きました。
第二次世界大戦が激しくなる頃までに、神戸港は世界の海運の中心となっていきます。ロンドン、ニューヨーク、ハンブルグと並んで、4大海運取引所のひとつが神戸にあったのです。
「神戸、大阪に来れば仕事がある、海運関係であれば神戸で食べていける」というポテンシャルが発信されて、日本中から「一発、当ててやろう」という人が阪神に集まって来ました。当時、神戸と大阪の起業率は非常に高く、海運業では神戸船主、大阪船主と呼ばれ、互いに競争しながら発展していきました。 |
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東京主導の戦後復興で失ったもの |
敗戦後、政府主導の復興計画が推進された結果、経済の東京集中が進みます。荷主の多くが東京に移り、それを追って、海運業も東京に行かざるを得なくなりました。これは日本経済の縮図です。海運業のお客である荷主とは、ほとんどの産業、特に、第二次産業はすべてを網羅しているのですから。
今、関西経済もベイエリアも沈滞が言われますが、実は、60年程前のこの時から、沈滞は始まっていたと私は考えています。
さらに、1965年ころから、海運の国際競争力を保つため、政策的な集約が進められました。これも当然、東京主導で、東京の大きな海運会社を中心に6つのグループに集約されます。神戸船主、大阪船主のほとんどが、その傘下に入らざるを得なかった。
もちろん、横浜の小さな船主もみな、集約されてしまったわけですが、大阪、神戸にあった、旺盛なベンチャー精神が、この時、くじけてしまったのです。 |
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コンテナ船の登場でアジアの基地に |
しかし、神戸港は、もう一度、挑戦の機会を得ました。それはコンテナ船の普及です。帆船から蒸気船に変わって以来、ずっと船は変わっていなかったのですが、1965年頃、コンテナ船が登場します。コンテナとは、長さが20フィート、間口が8×8フィートに規格化された箱で、これを使えば、どの港、どの船会社を使っても、効率的に作業ができます。
ただし、港にはコンテナを揚げ降ろしするシステムが必要になります。ベイエリアで見かける、赤い大きなキリンのようなガントリークレーン。あれが無い港には、コンテナ船は来ないことになるわけです。
当時、アジアで、そんな設備投資ができたのは日本だけで、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、北九州の6大港が、コンテナ港として整備されました。
ちょうどこの頃、アジアの国々が輸出を始め、日本はその中継基地となりました。荷物を従来の船で日本の港に運び、いくつかの貨物を混載してコンテナ船に積み替えるわけです。なかでも神戸港がアジアからの貨物をたくさん集めて、1970年代から80年代にかけて、世界のコンテナ港の中でもっとも取り扱い量が多い港として栄えました。
けれど、アジア諸国が発展して自らコンテナ港を持つようになると、当然、積み替えの荷物は出てきません。日本の港からは日本の荷物しか出ないとなれば取扱量は減り、コンテナ船が寄航する頻度も減ってしまいます。
日本の港の国際競争力を維持するため、スーパー中枢港湾を決めて貿易貨物を集中し、効率を高めなければいけないということで、今、検討が行われています。今年中には結論が出ることになると思います。 |
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平成の物流革命を生き残るために |
今、明治初期と同じように、海運、そして国際物流は大きな転換期を迎えています。
世界中すべての経済地域が、点ではなく面となって連なる時代が来ました。アジアは、日本だけでなく、NIESがいて、次にASEANの国々が控え、さらに中国がそれを追い抜く勢いで伸びているという、何層にもなった強い経済構造を持つに至りました。
ヨーロッパ、アメリカ、アジアが、本当の意味で3つの拠点になったのです。
航空貨物の伸びも大きな変化です。重量では海運が99%を扱っているといいましたが、金額でみると30%を航空貨物が占めます。先進地域向け輸出に限ると40%近くにおよびます。重量あたりの価格は、航空貨物と海運では70倍の差があるわけです。
高額な航空貨物を使って運ぼうと言うのですから、価格の高い商品であるのは当然ですが、そこには、ITの発展やサプライ・チェーン・マネジメント(SCM)の普及が関係しています。つまりそれは、スピードを重視するビジネスです。
スピードという点で、船は飛行機にはかないません。しかし、それで諦めて、重量で見れば海運も安泰だと考えてしまっては、ジリ貧が続くだけです。
飛行機か船か、選択の境界線上にある商品を、いかに海運にひきつけるか、また、他の港との競争にどうやって勝つかを考えなければいけません。 |
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海運の競争力が地域の経済を左右する |
これは、港湾の問題だけではすみません。取扱量が減れば、船が来る頻度は減るし、海事クラスターも弱体化して効率が悪くなります。日本に工場をつくっても、運ぶ手段に困るという事態になれば、経済全体に影響を与えます。
港湾業、海運業は、荷主の物流活動の通過点であり、いかに短時間に、効率良く、お客さんが喜ぶサービスを提供できるかが勝負になります。SCMや戦略的物流が言われる時代、海運もそれに対応したサービスを提供できなくてはなりません。
そのためには、ITの活用はもちろん、国内物流のネットワークに見られる規制の撤廃が重要になります。国内物流業には長く国際競争にさらされることがなかったために、規制や非効率な部分が多くあります。これを、国内物流業という一産業分野を守るための規制や商習慣だと考えていたら、国際競争の中で、海運も、そしてそれを使う産業も、その被害を受けて沈んでしまうことになりかねません。
かつて、大阪財界が神戸港を整備したように、大阪湾ベイエリア全体で、関西の経済を考えた取り組みを進めることも重要だと思います。
これからは、政府の予算に頼れない時代です。大阪、神戸に、かつてのベンチャーと民活の精神を取り戻すことも考えなければなりません。
明治時代の4要素、ネットワーク、後背地の発展、海事クラスター、民活は、今も重要なキーワードです。それぞれに、最新の技術、現在の国際ネットワークの状況などを織り込んで、取り組んで行かなければならないのです。
船に乗って海から見ると実感できますが、これだけ異なる文化が花開き、さらにそれが発展するシーズを備えた大きな地域で、しかも海に向かって開かれている場所は、世界でも大阪湾だけです。温暖で暮らしやすく、経済力も教育力もある。海に向かってということは、世界に向かって開いているということです。そんな関西に活力がないというのが不思議なくらいです。
海から見る景色に、行政の境界線はありません。今、求められているのは、行政の枠を超えた連携です。行政も産業界も地域エゴを捨てて、お互いに清濁合わせ飲む気概でもって、アイデンティティある発展と、それらのシステム連携を通じて大きな活力を生まねばなりません。大阪湾ベイエリアでの取り組みに期待したいですね。 |
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